第1節 位置と自然

辺野古は県都那覇より67キロ、本市名護市街地から南東へ12キロの東経128度2分2秒、北緯26度31分10秒の沖縄本島東海岸に位置する総面積10.83平方キロの村落である。

東方は天然の良港として名高い大浦湾をいだく海岸段丘の長崎が突出し、地先には長島と平島の無人島が浮かび、長島の突端を起点に半円形でサンゴ礁の発達したリーフ群(干瀬)が形成され、更に南西方向へ帯状に延び太平洋から打ち寄せる荒波を緩和する。その延長線上には伊計島・宮城島・平安座島が眺望できる。干瀬内の海域(イノー)は年中、穏やかな潮流と白波が陸地に打ち寄せ、集落南東は小湾状に形成され、その中央には琉球石灰岩からなるトングヮ(岩島)がそびえ立ち、岩島内域は満潮時に浅瀬の海になるが、干潮時は干潟が露出し、カニなど種々の海中小動物が生息する。

トゥングヮより南西には断崖地形の琉球石灰岩からなるタカシダキ(岩丘)が突出し丘上には松並木や亜熱帯植物が自生する。崖壁に形成された自然洞穴は、按司や高貴な婦人の墓所と一門中に利用された古墳墓で崖壁のいたる所の小洞はつい近年まで幼児の風葬地であった。

海岸線の白浜を境に隆起した岩礁が沿岸に広がりをみせ干潮時は岩肌が露出し、大小の岩穴は魚貝類の魚巣となっている。陸地との境もアダン林などが植生し、所々に石灰岩からなる岩堤が形成され潮害や浸食作用から陸地を保全する役目を果たしている。

集落北西には辺野古岳(332m)・久志岳(335m)・石岳(246m)の連山がそびえ、辺野古岳山麓の群生林は古来シマの人々の重要な生活源となる一方、麓に広がる谷間を流域に前田川(辺野古川)・福地川本流の源になる。

辺野古岳東方の福地川と名護境いまでを美謝川と称し、明治中期頃から山原下りした人々が本部・今帰仁を経て二次的に移住して集落を結成、本字の行政管轄下に置かれたが、昭和15年一行政区として分離され美謝川区と成る。

一帯には明治45年、明治天皇の大葬の折り、下賜された資金をもって造林事業が開始された事に因み、明治山と命名された造林区域も設定されている。

山海の自然環境に恵まれた集落は、俗称方位のイリ(西)は砂泥層とアガリ(東)は海岸浜堤から成り、俗に「ユアギジマ」(砂州)と称する。前方を小湾入江に注ぐ前田川本流は標高32m〜49mの段丘地形に隔てられ、集落背後も標高50mの緑地帯に囲まれ平地で典型的な碁盤目状に土地割された村落形態を成す。河口右岸西方の丘陵地は村落発祥の古島で、周辺の谷間や階段状の斜面には小さな耕地が残存していた。

イリ集落後方には、苗代田が形成され北方と河川両岸一帯には水田が広がり、古くから稲作が盛んに行われ北東の丘陵地一帯は畑作農耕地として利用されていた。

集落西北の旧河川跡の湾入部の湿地帯はマングローブ群生林が繁茂し種々の野鳥や魚貝類が生息し、時節に住民の身近な漁場になっていた。

集落周辺の台地は、戦前まで抱護村の松並木があり、長崎(岬)や古島(親里)の丘陵地のほか海岸線の突端地形には枝振りの良い一本松(単松)が植生され、東海上を航海する山原船や漁船の指標となる一方、農作業時の休憩場所や海岸の平松は門中祭事と青年団や子供達のかっこうな遊び場にもなり、のどかな村落の中で住民生活は営まれていた。


第2節 集落のすがた

古来、村落移動をする中で最っとも重視される風水思想は、冬は北風を防ぎ夏は南風を迎え、水資源や農耕に利便の良い立地条件の兼ね備えた自然環境が理想的な集落といわれる。

低地に形成された辺野古は、集落背後のクサティムイ(神山)に成立した「後ヌ御嶽」を中心に方位を見ると、北方に「子ヌ御嶽」が配置されている。この拝所は明らかに十二支の方位学に基づいて創設されたもので鎮守の森として崇められ、南方は小湾入江に位置し、西方は村落発祥の親里(古島)丘陵下の「南ヌ御嶽」の拝所が在る。

東方は集落背後の台地が海岸線に延びた段丘地形で北方の山域まで連なり、北西には辺野古岳と山麓を源流にする前田川が流れ、河川右岸も段丘地形からなり、山あいの河川沿岸の砂泥層低地が集落まで緩やかに延びて形成されている。

水は河川本流に合流するナキナガー・カーヌクアー・ナートウガーなど大小の支流のほかに、集落北方には山川と東方にはサーガーや背後に湧水の泉があり、居住地には湧泉が多く井戸水も豊富で、東西南北至る所の谷あいも小川が流れ、生活用水や田畑農耕などに利用され水源に恵まれた環境にあった。

海岸浜堤から成る東集落は後ヌ御嶽を中心に扇状に広がり、やや湾口と相対し、周辺を取り巻く丘陵台地は松並木の抱護林と海岸は潮害を防ぐアダンやユウナなどの亜熱帯雑林が植生されていた。

こうした地理的条件に加え、風水害から村を守り魔物の侵入を防ぎ、悪風を返すといわれる村落のフンシー(風水)も存立し、小湾中央に在るトングヮ(岩島)や沖合の干瀬上に隆起したマナヌ(岩石)と周辺の抱護林などが風水信仰による魔除けとして伝承されている。(トングワ伝説・衣食住魔除習俗の頁参照)

このように立地的にも恵まれ風水思想を取り入れ、地相的にも好条件を満たす村落共同体の中で、社会生活を営む人々によって漸次発展させてきた。


第3節 近世の邊野古

琉球王府時代の辺野古は金武間切に属し、大金武王子尚久の領域として統治され、俗に久志・辺野古と連称されていた。

延宝元年(1673年)金武間切から、久志・辺野古の二村を割かち、名護間切より大浦以北の十ケ村(現東村)を分轄して久志間切を創設し、按司地頭に豊見城王子朝良(尚経)と久志親方助豊(顧思敬)が任じられ、両惣地頭の領邑となる。邑(ムラ)名の方言音韻は「フィヌク」と呼称するが、時代の変遷と共に「ヒヌク」と音韻が変化している。

政治と祭祀を体系的に進める王府は辺野古を久志ノロ管轄下に置き、五月・六月ウマチの司祭者となり琉球国由来記(1713年)に記されているミヤチ御嶽とマシラジ御嶽も久志ノロ御崇所となる。

王府時代の陸路交通は、間切番所を結び東海岸を北上する宿道が集落中央を通り、隣村との交流を図る唯一の公道があり、北東の丘陵地には里程を示す一里塚も構築されている。(正保3年琉球国絵図・1646年)

海路は天然の良港として大浦湾と並ぶ辺野古港があり、東海上を航海する山原船や漁船の寄港地としても知られ、平安座・泡瀬・与那原船籍が往来する律口になった。

古来、海上交易も盛んに行われ、1864年(元治1年)〜1875年(明治8年)頃には地船(部落共有山原船)も所有し、木材・薪炭材などの林産物を泡瀬・与那原を仕向港として輸送した。与那原港海岸一帯には、同村共有地の中から特別に仕立てられた、金武・久志地といわれる両間切管理の租界地があり、林産物集積や取引き所として利用されていた。(中山世譜・球陽参照)

こうした地船や個人所有の山原船は陸路交通の未発達な時代は、村人の唯一の輸送機関でもあり、琉球藩諸調書(明治6年)によると大浦以北への往来も、大浦湾岸のナービグゥに公営的な渡し船も設置され、旅人や役人にも利用された。辺野古を領邑する脇地頭には、1799年(尚温王統)向姓十四世朝傑が拝命し邑名を名乗り辺野古親雲上となる。(那覇市史家譜より)。その後、1852年(尚泰王統)譜代貝姓六世唯紀に地頭が代り高里親雲上の名を拝命、親子二代に渡り辺野古を領有し、いずれも辺野古邑を訪れ宗門改めを行い村人より歓待をうけている(福地家所蔵日誌より)。

 


第4節 近現代の邊野古

水と森林資源や海洋の豊富な海産物に恵まれ、永々先人達によって築き上げられた辺野古は、明治以降、村学校(学習所)の創設や架橋工事の着手、海外移民などが始まり社会環境も変容のきざしが見え始めていたが、山依存による生活形態は変る事も無く自然港を律口に往来する数隻の山原船頭と林産物伐出する住民との間で換金又は物々交換による取引きが主流をなす時代であった。

明治41年杣山払下げに端を発した償還金返済に起因する薪代値上げ問題で、仕向地の与那原対金武久志間切の対抗では字の有識者も関り、長年先人達が夫役などで育んできた山林地を守る施策は当然の成り行きとして注目された。

大正期になると鉱山ブームのあおりで山河沿いの発掘が始まる一方、大火災が発生し多くの罹災者が続出した。字行政に見る当時の辺野古は、大正9〜10年頃、経済の中心となる共同店を設立したが、同11年名護村世冨慶ー杉田(現二見)間の郡道工事請負いによって字有財産を処分する程の財政難に落ち入り、住民生活も混乱を起こし窮状の中で本土出稼ぎ者が急増した。当時の財政源は漁業権を与えた海ガネー・津口税(薪木税)・浜税・美謝川集落からの貸地料でカネーと称する財税収入が旧慣を踏襲して行われ、公有林地の償還金などに充てられていた。