辺野古エイサーについて

辺野古エイサーは、辺野古青年会によって古くから踊られている民族芸能。

大正初期まで演じられていたエイサーは、その後何らかの理由で中断し、それ以降再現されること無く消滅した。

現在演じられているエイサーは、昭和37年当時の青年たちによって、当時軍作業等で辺野古に寄留する中頭郡等出身者より、池原、赤野、園田エイサー等指導を受け、勇壮活発な締め太鼓の振り付けと、それに続く踊りも浴衣姿で青年男女舞う情緒豊かな辺野古独特のエイサーに創作、およそ50年振りに新しいエイサーを完成させた。

 

その一糸乱れぬ隊形は、昭和39・40年「第一回全島エイサー大会」(現ふるさとエイサー祭り)で二連覇の栄冠に輝き、県下に辺野古エイサーの名を馳せた。その後も映画「網走番外地」への出演や、若夏国体の沖縄代表としてエイサー出演し、現在では、旧盆の3日間(ウークイを除く)地域内を練り歩き、その他福祉施設やエイサー祭り、催し事などに出演している。

 

第一回全島エイサー大会の辺野古青年会
第一回全島エイサー大会の辺野古青年会
第一回全島エイサー大会の辺野古青年会 地謡
第一回全島エイサー大会の辺野古青年会 地謡


 

青年会

古来、「青年はシマの中柱」といわれるように、伝統行事の継承から慣習法に基づく農林産物保護に関する原番札や風紀の取締りと、時には字を守る防波堤として、常に中心的役割を果たしその団結力は村落社会においてもなくてはならない存在であった。

しかし、その起源を知る伝承もなく明らかには出来ないが、昔から村落共同体としての習俗や伝統的な規律を守る為に不文律のまま自然発生的に形成されていたといわれている。

 

青年会が制度上組織化されたのは明治43年7月、当時の農村疲弊による社会情勢もあり青年教育が重要視され県訓令によって、国頭郡青年会及婦女会の設立が各村長や学校長によって話し合われ、翌44年には、群訓令によって各村(字)青年会の創立を促し、大正元年頃には「久志村青年会辺野古支部」の名称で発足したのが始まりとされる。

 

古老によると大正中期頃までは青年会も「ニーセーズリ」(二才揃)などと俗称され、そのリーダーを「二才頭」と呼び、会員も尋常小学校を卒業した15〜40才までの、シマに生まれ育った男子で強制的に入団義務を負わせてた。


また単位組織でありながら、当時は22才以下青年と23〜29才までの青年を区分し、更に30才以上を「賛助員」と呼称していた。しかし活動の中で実質的に実働するのは22才以下の青年で、賛助員になると指導的な地位にあり、ほとんど字行事に参加するのみであった。しかも当時は旧慣習に基づいた活動がなされ、青年会改革がなされたにもかかわらず、二才頭や年輩者の命令は絶対的なものがあり、特に上下関係には厳しく、けして民主的な運営ではなかったとある体験者は述懐する。

 

現在の辺野古エイサー
現在の辺野古エイサー
現在の辺野古エイサー 手踊り
現在の辺野古エイサー 手踊り


昭和戦前の青年会

昭和の時代になると名称も「青年団」と呼ばれ青年活動も旧慣習を踏襲して団結を図っていた。昭和3年には既に青年団独自の基金も造成され、ナキナ(地名)の一部には茶園畑をもち竹造林等によって収入を得ていた。同5年、久辺校区青年団長に小学校長の宜野座衛が就任、校区単位でも品評会や青年修養に関する多彩な行事も行われる一方運動会など対外的な社会活動にも参加した。

また島袋甚栄(玉城屋)団長の時にはウブガー東方に療薬用のこい養殖場を建設するなど活動も盛んに行われていた。

 

特に昭和9年安谷屋芳雄(嘉陽出身)が青年団長に選任されると男女青年が合同で活動するようになり、風俗矯正や勤労意欲を高める為にクェーガヤ(堆肥草)積み上げ勝負などを事業に取り入れたり、7月正月には娯楽行事を催し青年の意識の高揚を図ったといわれる。

また、かつて青年の修養の場であったクラブが老朽化しているのに伴い青年クラブ改築を計画、資金造成の為に早朝5時からボラ(ホラ貝)の合図と共に起床、夕方は家事を終えた頃から労力の少ない農家の田倒し上ぎや荒地開墾などの農作業を請け負い自力で建築資金を造成した。

 

一方当時は青年学校令も公布され戦時体制下の教練も盛んに行われていたが、ひとり暮らし世帯や困窮家庭への農耕等の奉仕活動も怠る事はなかった。しかも青年クラブ建築中は男女青年とも夜遅くまで、歌を歌いながら瓦しっくいを練ったり作業にも参加した。

昭和12年待望の赤瓦造りの青年クラブが完成すると、村内各字の役員を招待して盛大に祝賀会が催され、新築された修養の場を拠点に活動がなされた。また同13年頃には団員の見識を広く高めようと村外一泊研修を実施、費用捻出にはマタガ(地名)あたりの山で木炭製造を活動の一環として始め、資金造りをした。

 

視察研修にはほとんどの男女青年が参加して1日目は泡瀬青年会と交流を図るなど画期的な活動を促し、与那原ー那覇ー嘉手納を社会見学すると共に、シマでは体験することのない軽便鉄道にものせ文明の発達している事を自ら学ばせ青年活動の大きな転換期でもあった。

また支那事変勃発により戦況著しくなると銃後活動の一環として出征入営者の送別会を催したり、留守家族への農耕から家畜の草刈り作業を頻繁に実施して家族を激励した。

 

こうした多くの活動から実績を上げた辺野古青年団は、昭和14年紀元2600年祭を迎えるにあたり沖縄県一の模範青年団として表彰を受け、次の活動内容が掲載されている。

「沖縄本島北部久志村字久辺部(辺野古・久志)の男女青年団の活動はまさに全国に誇る農村青年の活模範を示している・・・中略・・・主な事業は風俗改善、農作物指導圃設置、農作物品評会、貯蓄奨励、標準語奨励、修養道場建設、支那事変後の活動は目ざましく事変直後から一日も休まずに出征入営家族に対する奉仕作業を実行する・・・略・・・事変以来たとえ50米の猛台風が吹いても一日たりとも絶対に休んだことがないというのが最大の誇りである。」との記事が見られ、一日二回総動員しての奉仕活動は連日続けられその団結力は他字青年にも勝るものであったといわれる。

※注 - 資料大坂朝日新聞昭和14年12月21日に掲載され記事には久辺青年男女とあるが、写真の背景は辺野古青年クラブで当時の男女青年団である。


昭和11〜12年頃の辺野古青年団
昭和11〜12年頃の辺野古青年団

 

戦後の青年会

昭和20年終戦を迎え今次大戦に参戦した軍人や軍需工場に徴用されていたシマの青年層も続々と帰郷しはじめると、久志村役場でも戦後復興には、かつての各字の中心的役割を担って来た青年団の再建こそが急務であると、同21年敗戦後に低迷する青年活動や青年の虚脱感を払拭しようと村長は各字青年団へ文書を発送して、いち早く再興を促した。

 

同22年1月、久志村青年会が再建されると、字でも島袋秀成(栄松根)を戦後の初代会長に選任し郷土復興に努めるかたわら、食糧増産に圃場開墾(青年地)から伝統行事の復活、奉仕作業と青年活動を再開した。

 

組織強化を図る為に事業の中で社交ダンス等も導入し朝作業などの活動を通し資金貯め蓄音機を購入活性化に努めた。一方、その頃から辺野古でもキャンプ基地の建設が着工した事により流入人口も増加、にわかに活気づくと飲食店も建ち並ぶようになり、青年を中心とした自警団を組織して治安活動も行うようになった。しかも戦後の過度期を迎え、シマを離れていた青年層も次々と帰郷したことから会員も増え、一時期該当年齢を戦前の25才まで引き下げる程になったといわれる。(その後再び30才に引き上げた。)

 

昭和37年城間輝雄(城間屋)会長就任した頃から青年の主体性と組織の活性化を目的に掲げ、沖縄古来の民族芸能「エイサー」を導入、更にシマ独特の伝統エイサーを創作して、昭和39年「第一回全島エイサー大会」及び翌年の「第二回大会」に出場して、その洗練された勇壮活発な演技で見事二連覇を達成し、青年の団結力を誇った。

 

また当時クリスマスダンスパーティーなども企画し活動資金を造成し活発な運営を図り、社会見学や教育行事にも参加して新たな活気ある青年会へと発展し、一時代の転換期となった事はいうまでもない。(邊野古誌参照)

 

昭和39年頃の辺野古青年会
昭和39年頃の辺野古青年会

 

現在の青年会

現在においても辺野古青年会は、シマの18才〜30代前半の会員を中心に数多く残るシマの行事を支える中心として活動を続けている。シマ離れや人口の減少により会員数も減ってきたが、強固な連帯力をもって、シマを支える防波堤となっている。

 

辺野古青年会 エイサー
辺野古青年会(2015年)

エイサーとは

エイサーは旧暦の盆の送り(ウークイ)の夜に行なわれる。近年は盆の迎え(ウンケー)から数夜連続で行なわれることが多い。 旗頭を先頭とした一団は、地域の各戸を回り、それぞれの家の祖先の霊が無事に後生(グソー、「あの世」の意)に戻れることを祈願することを述べ、エイサーを踊る。このようにして家々を回り歩くことを道ジュネーと呼ぶ。 エイサーは町内会単位で結成されることが多いが、その境界では複数のエイサーがかち合うことがある。この時には双方が一層声を高くし、踊りに熱を入れる。これをエイサーオーラセーまたはエイサーガーエーと呼ぶ。

近年では太鼓を持つスタイルが多くなり、踊り自体を鑑賞するために各地域のエイサーを集めたイベント等も開催され、重要な観光イベントとなっている。 (wikipedia "エイサー"参照